黎明期(3)

ところで、表音文字と表意文字では概して表意文字のほうが人工言語に与える背景が広範で深淵なようである。 言い換えれば人工文字に与える影響が大きい。 ハングルの血の歴史や神代文字の民族意識を見ても頷けることだが、 なぜ表意文字のほうが人工文字に大きな影響を与えると示唆されるのであろうか。 こう書くと西洋の血の歴史を気が滅入るほどご指摘いただきそうだが、それは無論踏まえての上である。

背景が後半で深淵という仮説の原因は民族性の違いでもないし、東西文化の違いでもない。 表意文字は表音文字に比べて文字の象徴性が強い。また、文字数が多く字形が複雑で習得が難しい。 これらが大きく関わっている。

ハングルが起こった理由を思い出してほしい。 そもそも漢字が難しくなかったらハングルの必要性は無かった。 中国が20程度からなる表音文字を用いていて、朝鮮語と似たような音韻体系を持っていたら、 ハングルは決して生まれなかった。表意文字の持つ難しさがハングルを生んだ。

一方、神代文字については民族意識の問題があった。 表意文字である漢字は表音文字のアルファベットよりも象徴性が強いため、 「自分達は固有の文字を持たない」という劣等感を日本人に強く植え付けた。 その劣等感への反動が神代文字を生んだ要素のひとつであることは否めない。 このように、表意文字はその習得の困難さと象徴性の強さにより、表音文字に比べて、 人工言語の文字に大きな影響を与えると考えられる。

表意文字は絵文字の性質を持っているので、ピクトグラムと重複する点がある。 ピクトグラムという点で見ればアルファベット圏の西洋も、ピクトグラムの持つ象徴性の強さに翻弄されてきた。 そもそもアルファベットにも象徴性は認められている。 たとえばXは相手が入れないようにドアに打ち付けた木の板を象形している。 そこから意味が未知に転じた。

いまでも数学で変数をXとしたり未知の要素をXとするのはこれが原因のひとつであろう。

また紋章などをはじめとした象徴的なピクトグラムが西洋には多数ある。 中でも最も象徴的なのは十字である。十字は人工文字ではないものの、極めて象徴的な意味を持つ。 具体的にいえば、十字は包括的にキリスト教を象徴する。 十字の象徴は、キリストと彼が磔を被った十字架との間におけるメトニミー(より厳密にいえばトポニミー) から作られた。そのため、漢字でいえば象形ではなくむしろ指示といったほうが正しい。

この十字という象徴文字は西洋に多大な影響を与えてきた。 西洋人の精神の中に十字はあまりに象徴的に刷り込まれており、 十字軍やナチスドイツの鍵十字(ハーケンクロイツ)などを例に出すまでもなく、 十字を背景とした出来事は多い。

このように、表音文字圏である西洋でも一部のピクトグラムがその象徴性によって東洋と同じように 広範な背景を持つことは認められる。 そしてこのことは表意文字の象徴性が広範な背景を文字自身に与えることの傍証でもある。

表音文字圏にある西洋人にとって表意文字やピクトグラムは日常的に自分達の言語を表す ためのものではなかった。それゆえ西洋人が表意文字やピクトグラムを見るときは、 その象徴性が取りざたされた。神話や聖書の解釈を見るとしばしば西洋の象徴性への執着が見られる。 この執着は16, 7世紀の真正文字より前に遡ることができる長きに渡るものである。 日常言語が表音文字を使うため、西洋人の表意性への渇望がこの執着を生んだとも考えられる。 表意文字の持つ象徴性に神秘主義を重ねた一部の真正文字の探求者は将にこの好例である。

漢字の影響を強く受けた東洋にとって表意文字は日常的で生活臭のするものである。 何かを象徴するという神秘的な意味合いは薄れ、単に市場に置いてある桃といった即物的な 日常品などを表すものという側面が大きい。生活に密着している分、表意文字を過度に象徴的に 捉えないのが特徴的である。表音圏にいる西洋のほうが慣れがないため、 過度な期待や意味を表意文字に持たせやすく、神秘主義に陥りやすい。 16世紀、表意文字ブームがにわかに起こったとき、 ――たとえそのブームが普遍文字を求めたものであったとしても――しばしば表意文字の象徴性が 取りざたされたのはその裏付けである。

人工言語の黎明は暗号と文字の歴史である。これがこの項の結論である。

まとめよう。原初の人工言語は暗号であった。暗号には文字が使われた。 人工言語に使われる文字は自然言語の文字に影響を受けてきた。 東洋では表意文字である漢字の影響を受け、ハングルのような先験文字が生まれた。 西洋では表音文字であるアルファベットの影響を受け、キリル文字のような後験文字が生まれた。 どちらも自然文字の背景を背負うことに変わりはなく、 人工言語における文字は自然言語の文字から影響を受けてきた。

尚、文字は人工文字と自然文字に分かれる。 人工文字は先験性・後験性の観点から、先験文字(ハングルなど)と後験文字(キリル文字など)に 類別することができる。自然文字を人工的に作り変えていない仮名文字は自然文字を改良した 自然文字であり、人工文字ではない。

表意文字の難解さと象徴性の強さにより、表意文字を参照した人工文字のほうが広範かつ深淵な 背景を与えられる。表意文字が大きな背景を抱えるというのは人工文字だけでなく自然文字や ピクトグラムにもいえることである。西洋でも十字などは非常に大きな象徴性を持ち、 歴史的事件を何度も背景にしてきた。但し、表音文字は背景を持たないというのは全くの誤解で、 トルコアルファベットのように社会情勢や民族意識を背景としたものもあった。